(譜面台を『ユメタン』仕様にして演奏する今吉先生)
夏の終わりに長崎に行って、執行先生と一緒にワークショップをしてきたんやけど
そこに参加された先生方へのお礼状を送り終えた。
あ、執行先生に出すの忘れてる。まぁいいや、彼の場合は同志みたいなもんだ。
長崎の先生方からのお返事や返信のメールを頂戴するにつけ、本当に良かったと
感じている。セミナー自身も好きだが、それ以後の個人的付き合いが始まる瞬間の
ワクワク感が大好きだ。
そのワークショップに来られていた長崎の学校から「授業見学させてほしい」と電話
を頂いた。公文書を校長に出しておいてほしいと返事。2日間滞在されるらしい。
こうして縁というものが始まる。そもそも「縁」ってのは始まったり終わったりするもの
なんだろうか。そうではなく、「ある」あるいは「ない」ものなのか。
それは47歳が若すぎてわからない。
よく考えると「縁」というのは昔から「付き合い」の言い換えとして使われてきたので、
その意味でいえば「付き合いが始まる」や「終わる」という言い方がある以上、「縁が
始まる」や「縁が終わる」という考え方もあるんだろう。
そもそも縁ってのは運命的に定められたもので、氷山みたいに隠れてる部分が、目に
はさやかに見えない部分が、とっても大きい。他生の縁という言葉もある。
出逢う人々とは何らかのご縁がそもそもあったんだなと考え、遠藤周作先生が仰ると
おり、その縁が良いものであれ良くないものであれ、後から考えればあの縁があった
から今の自分があると思えるように生きることなんやな。
人生ってのは。
おそらく。
そしてそれは人との縁だけではなく、書物との縁にも同じことが言える。この書物と出
逢わなければ今の自分はないと言える本がたくさんある。
良い本もあれば悪い本だってある。そのいずれとの出逢いも無駄ではなかったのだ。
人生には何ひとつ無駄なものなんてありゃしない。神様という現象が引き起こす様々な
出逢いや日常の営み全てに感謝をしつつ、また今日もひとつずつ着実に階段を昇ろう。
長崎の先生との電話を切った後に、そんなことをツラツラと考えながら、1年1組の教室
へ足取り軽く入っていった木曜日の午後なのでした。
「はい、号令!」「きりーーっつ!」