日本語の力を外国語の力が超えることはありません。
生徒たちにはしっかり日本語(教科としての国語ではない)
を勉強しなさいと言っています。
いくら英語を勉強しても日本語の力が弱いと伸びません。
そんなわけで66回生のときから、生徒たちには毎月1冊か
2冊、自分が読んだ本の中からいいものを選びまして
コラム付きで紹介しています。
今月は2冊紹介しました。そのうちの1冊がこれです。
朝井リョウの『何者』です。
生徒たちに渡したコラムがこれです。
**********
僕は本を書きます。子どもの頃から文章を読むのも書くのも大好きで、いつか自分でも書ければいいなと思って生きてきました。ある時期に遠藤周作という作家に出会い(その時に出会った作品は『黒ん坊』というタイトルの小説でした)後頭部をバットで殴られた思いを味わいました。うわ、読むのと書くのは全然違うんやな。プロってすげぇ。
遠藤作品を貪り読んでいるうちに、そのプロットだけでなく、文体にも惹かれていくことになります。小説やエッセイのプロットを際立たせるのは文体です。レトリックをふんだんに使いながらも、それまで数多くの本を読みながら、あるいは書き写しながら、遠藤先生が体に刷り込まれた日本語の使い方を味わう読書を楽しむようになりました。
それから数年後、浅田次郎という作家の『鉄道員』という作品に、今度は遠藤作品に殴られた小学生の僕ではなく、すでにいい年齢になって自分の文章力にある程度の自信を持っていた僕は自分の低さをこれでもかと見せつけられることになります。以後は浅田作品に没頭することになります。プロットは言うまでもなく、日本語の表現力が他の作家とは二段階ぐらい違うように思われたのです。少なくとも、僕にとってはそう感じられました。
僕にとって遠藤周作先生と浅田次郎先生は先生であり、師匠なのです。
若い人たちの文章を読み、道尾秀介、伊坂幸太郎、三浦しをんといった人たちの巧さに苦しめられてきました。自分よりすごい人に対する気持ちは常に、憧れというよりもむしろ羨望で、だから苦しいのです。嗚呼、この人は巧い。この人も巧い。自分とは全然違う。プロはすごい・・・でも、でも巧いけど、遠藤先生や浅田先生のときに感じた、苦しいんだけど、同時に喉の奥をころころとくすぐられるような感覚が湧くことはなく、だから道尾作品にも伊坂作品にも三浦作品にも、どっぷりハマることはありませんでした。
朝井リョウをある人から勧められました。僕はツイッターをしないので、どうにも読みにくそうだなというのが第一印象でした。最初の三分の一ほどを読み終えたときに抱いた印象は「また凄い作家が出てきたものだな」という程度でした。それが少しずつ変化し始め、エンディングを迎える頃には、この平成元年生まれの作家のことはもう少し追いかけなければならないというものに変わっていました。僕の書斎には本棚が7本ありますが、小説専用の本棚がまた賑やかになりそうです。
**********
よかったら読んでみてください。
レトリックもコンテンツも、そんじょそこらの物書きとは
まったく違います。他の朝井作品も読んでみたくなります。
この小説はすごい。
今日もブログにおいで頂き、ありがとうございました。
今日から福島県に来ています。寒い。