KIMUTATSU BLOG
木村達哉のブログ「キムタツブログ」

日別アーカイブ: 2010年2月21日

kimutatsu

最後の練習試合

Posted on: 2010年2月21日(日) 22:32

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来週から公式戦が始まります。今日は最後の練習試合を行い、神戸市立の
公立中学校2校と対戦しました。相手は大池中学と向洋中学。

大池中学は夏の大会などで神戸市上位に食い込む強豪なのですが、そこを
相手に0-0の試合をしました。投手陣がよく投げたと思います。

向洋中学相手には5-3で勝ちました。

冬場に相撲をしたり走りこんだりしながら足腰を鍛えてきたのですが、それが
ここに来て生きてるなと思っています。とは言え、素振りが足りません。

試合までの1週間は素振りをしっかりさせようと思います。

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それとバントですね。今日もスクイズが決まらず、欲しかった追加点が奪えま
せんでした。送りバントもほとんどファールになってしまいました。

特に軟式野球の場合、ボールがあまり飛ばないので、チャンスらしいチャンス
をしっかりとモノにしないと無得点で終わる可能性が高いのです。

プロ野球のボール(硬球)みたいには飛ばないので、ジャストミートしたと思う
打球でも深く守っている野手に簡単に取られたりします。

したがって小技が大事なのですが、それができないとなると点が取れません。

バントすべきところでバントし、ゴロを打つべきところでは転がす。

あと1週間でどこまでできるかわかりませんが、選手たちには頑張ってもらい、
なんとか勝ち進んでもらいたいと願っています。

何はともあれ負けないチームになってきました。しかし油断せずに鍛えます。
目標はあくまでも神戸市優勝。監督やってる間に、一度は県大会に出たい。

 


投稿者: kimutatsu  |  カテゴリー: 日記  

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子どもは親の所有物ではない

Posted on: 2010年2月21日(日) 12:31

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岡本海渡クンが両親から虐待を受けた後に亡くなったというニュースを
新聞で読んで、なんとも言いようのない切ない気分になっています。

子どもは親の所有物ではない。こんな当たり前のことに気付かない親
がいるから始末が悪い。

以前ある番組で、東大に入った我が子を指して「この子は私の作品だ」
と言っているバカ親がいたが、それも違う。

子どもは親が作るのではない。子どもは親とは別人格の、社会生活を
送っている人間で、大人はその成長を部分的にサポートするのだ。

教員でも「誰それを東大に入れた」という言い方をする人がいるけれど
それも違う。その生徒が頑張ったのであって、教員が入れたわけでは
決してない。サポートが成功しただけのことだ。

逆に言えばサポートに失敗した生徒だっている。支えてやれなかった
ケースだってあるはずだ。それを忘れて「入れた」と言うのはどうか。

親も教員も子どもたちの成長を願い、彼らが自立するべく、陰ながら
サポートし、生温かく見守り、そして彼らが成功すれば共に喜びつつ、
その後はひっそりと離れていくのが正しいのではないか。

海渡クンにライターの金属部分を押しあてた義父は「しつけてまっとう
な人間にしようと思った」というような発言をしているらしい。

まっとうでないのはどちらなのか、答えを待つ必要もなかろう。

子どもは親とは別人格なのだ。この意識は絶対に必要だ。

ただし言うまでもないが、単なる放任ではダメだ。

大人は子どもにいろんなことを与え、耐えることを教え、理不尽なこと
だって家庭や学校の中で体感させればよろしいと僕は思ってる。

そして指導者や保護者が本人の成長を、ものすごく長い目で見ること
ができなければ、その指導は間違いなく失敗に終わるだろう。

東大に入ろうと現役で合格しようと、生きる力のない生徒やコミュニケ
ーション能力が欠如している子どもの場合、近い将来失敗する。

知識だけ豊富で知恵のない子どもは、間違いなく社会に出るとまったく
使えないということになる。

失敗を繰り返しながら成長してきた大人であれば、目の前の子どもが
どうすれば大きくなれるのかを考える必要があろう。

失敗することがダメなのではない。むしろ失敗経験をさせればいい。

大人がすべきは、失敗した子どもに対して、そんなことぐらいで倒れて
いたらこの先の人生でドエライことになるから早く立ち上がれと命じて、
そして立ち上がったら再び木の上に登って見ていればいいのだ。

手を差し伸べるのは、もうこれ以上立ち上がれなくなった子どもに対し
てでいいと僕は思ってる。それは放任とは違う。

親や教員には「あれこれ言わずに我慢して見守る」という能力が必要
ではないか。

海渡クンにライターを押しあてた義父と、同棲していた実母がどういう
メンタリティーであったかは、手に取るようにはわからない。

だけどきっとその人たちは、海渡クンは自分の所有物であるかの如き
感覚を持っていたのは間違いないだろう。

そして「自分の言うことを聞いてくれる子ども」、「失敗しない子ども」にな
ってくれれば、その教育や良しという考えを持っていたのではないか。

僕も我が子や生徒を見ていると、確かに口を出したい時もある。

しかしそういう時こそ「ガンバレ、ガンバレ」と念じて、もしも失敗すれば
また立ち上がってくるのを我慢して待っている。

本当にしんどそうな時だけ口を出す。

見ているのは目の前の彼らではなく、35歳や40歳になった彼らだ。
そういう年齢になったときに、魅力的な大人になっていてくれよと念じて
彼らのトライアルとエラーを生温かく見守っているのである。

手を差し伸べ続ければ、そりゃ彼らは楽なレールの上を歩けるだろう。
しかしそれでは彼らはいつまで経っても自分の足で歩けるようにはなら
ないだろう。中学2年生になっても3年生になっても自立できない。

そんなことでは困る。

そんなことだから「やる気を出すにはどうしたらいいでしょうか」なんて、
常識では考えられないぐらいアホなことを言う人間になるのだ。

指導者は子どもたちの失敗を待ち、その時に彼らがどういうスタンスで
自分の失敗に向き合うのかを客観的に見守るべきではないか。

虐待のニュースが入ってくるにつけ、もちろん子どもを育てるのは大変
だし、特に女親は精神的にしんどくなるのを重々承知しているけれど、
それでも「長い目で子どもを育てようぜ」と呟いているのである。

最後に、海渡クンのご冥福を心からお祈りしたい。今度生まれてくる時
には幸せな人生を送ってほしい。

 

 

 


投稿者: kimutatsu  |  カテゴリー: 教育全般  

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